2016年6月4日土曜日

「ただひたすら座禅せよ。道元を知る。」

「ただひたすら座禅せよ。道元を知る。」
道元は、知らなくとも座禅は名前ぐらい知っているでしょうし、結構一日ながらでも
経験している人が多いはず。

道元は、「南無阿弥陀仏」と言う念仏を唱えることで、衆生の
願い(仏の世界への旅立ち)を叶えられるという時代に、
「只管打座ーただひたすら座禅せよ」と唱えた。
そのために、「普勧座禅儀」を書いた。
「座禅は、即ち、大安楽の法門なり。もしこの意を得ば、自然に
四大軽安、精神爽利、正念分明、法味神助け、寂然清楽、日用天真なり。
すでに能く発明せば、謂つべし、竜の水を得るが如く、虎の山によるに
似たりと」と言っている。
道元の思想の根本は、
「修証一如」。
道を探り、悟りを求めて座禅すると言うそのプロセス自体の中に、
既に、悟りがあると言う。「修証一如」、つまり修行することと
悟りを開くことは1つである。
この根底にあるのは、「脚下を照顧せよ」として、普段の生活まで
自身の足元をみることを勧める。
正法眼蔵全95巻の「弁道話」には、
「修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち、外道の見なり。
仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心
の弁道すなわち本証の全体なり」
道元の基本的なスタンスは、まずは、既存の考えを否定すること
ではないか、とも思える。
例えば、
涅槃経の 「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」
は、誰にでも、仏になる素質を持っている、と解するが、
道元は、違う。
「一切の衆生、悉有が仏性である」と説く。
一切の生きとし生けるものは、悉有の一部であり、草木草木
虫類に至るまで、そのまま仏性と考えている。
道元が、絶対真理を詠んだ素晴らしい歌がある。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」
春に花が咲く、夏にはほととぎすが来て鳴く、秋には月が美しい、
冬には雪が積もる。ごく当たり前の情景で、何一つ不思議はない。
しかし、その当たり前のこと中に、夫々の現象が夫々の季節に
姿を現していて、それ以外には、季節の現れ方はないと言う
絶対的真理があると言っている。
すなわち、全ての季節を夫々に共通の世界の真実がそこに
現れていて、何一つ変わることはない。そう思えば、心は
非常に涼しいという境地を詠んでいる。
道元は、その92巻で、生死についても言っている。
「生死の中に仏あれば生死なし。また曰く、生死の中に
中に仏なければ生死にまどわず」
生死は、生と死という2つを論じているのではない。
仏教では、生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世を言っている。
生死の中には、元々、仏がある。すなわち、絶対的な真実を
掴んでいればすでに、現世を越えている事となり、今更、
生きる死ぬと言うことを迷う必要はない。逆に、生も死も
只それだけの事実で、ことさら悟りや救いがある訳でもない
と観念していれば、生だ死だと騒ぐ必要もない。
そして、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。
生は、ひと時のくらいにて、すでにさきあり、のちあり。」
生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として
徹底的に受け入れること。
先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。
生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。
そこには、絶対的な今しかない。
死を迎える心とは、
「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。
いとうことなかれ、ねがことなかれ」
我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や
死後の成仏を願うこともない。生の中にいて、生以外のものを
願うことはできないし、死の中にいて死以外のこともありえない。
元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。
「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが
本人にとって、一番悪いのかもしれない。
達するべき己の境地とは、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、
仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもていくとき、
ちからももいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ、
仏となる。」
これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を
言っている。
全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、
人間を向こうから明らかにしてくれる。だから、力んでしまう
ことはない。そのまま生死を離れ、仏となることが出来る。
大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして忘れること。
生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」
をキチンと理解することの出来る人は少ない。
しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくない。
今回のような病気になっても、わが身では、まだまだ、
不十分。健康な人が生死を意識しないのを、意識するように
なったぐらいかもしれない。
正法眼蔵の、「生死の巻」
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、
すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。
…いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも
いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
「仏となるに、いとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に
著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ
下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもう
ことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」
この巻は正法眼蔵九十五巻の中では大変短い巻である。
そしてこれを書かれた年月もはっきりしていない。
しかし、道元の生死に対する見方が、短い巻の中に言い尽くされている。
この巻の書き出しの言葉は「生死のなかに仏あれば生死なし」であり、
これは修証義のはじめの言葉でもある。私たちにとって生死の問題
を究明することは重要で、だれしもこれを避けてはならない問題。
この世に生を受けたるものはいつか必ず死をむかえるのもこれは事実
であり、そして如何に死を迎えるかということが大切である。
それは如何に生きるかということでもある。
正法眼蔵諸悪莫作の巻には「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の
因縁なり」とあり、つまりこれこそが仏教の根本問題である。
「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉の中に道元の生死観
が言い尽くされている。この言葉の意味は、生死というのは真理であり、
真理の外に生死はないということである。
ここでいう「中」とは「即」という意味であり、「仏」とは「真理」
という意味であります。ここに引用させていただいた言葉の大意
を現代語に訳して置く。
「この生死は仏の御生命であり、真理であります。これを厭い捨て
ようとすれば、仏の御命を失うことになります。生死の問題に
執着すれば、これも仏の御命を失うことになります。・・・生死を
厭うことも慕うこともなくなればそれは仏の心、つまり真理の世界
にいるのであります。身心を投げ出して生死に執着せず、」
仏の家に我が身心を投げ入れ、仏におまかせし、仏さまに導びかれて
ゆくならば、己は力をも入れず、心をも働かさなくて、それでいて
生死を離れることができ、仏となるのであります。
「仏となるに易しい方法があります。それはいわゆる悪の心を起こし、
悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、
上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、
願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、
このような人を仏といい、外に仏はないのであります。」
これが現代語訳であり、生き死ぬということ、つまり生滅
ということは大宇宙の動かすことの出来ない真理であり、無常
こそ世の道理である。このことがわかり、而今を全機に
生きるならば「生死なし」である。これは物質的な生死は
人間だれしも避けられないが、それを厭いまた願うという
執着の心を離れ、生が来れば生を、死が来れば死を心静かに
受けるという、仏に任せきりの境地に到るならば、それは
心安らかで、まさに悟りの境地というべき。
「生まれてはつひに死すべきことぞのみ、さだめなき世のさだめ
なりけり」という古歌がある。生も大宇宙の真理、死も
大宇宙の真理、一日一日、今日今時を如何に生きるかということ
が私たちに与えられた永遠のテーマであり、日々仏法僧の
三宝に帰依する生活を送りたいもの。

「参考として、十牛図を考える」

「参考として、十牛図を考える」
禅宗への関わりは、3回ほど座禅を組んだ程度で、修養と言う点では、
何もしていない。しかし、その心で、人生の1つの生き方を感じるのは、
出来るはずである。十牛図は、その指針ともなると思うが。
十牛図」とは、逃げ出した牛を探し求める牧人を喩えとして、牛、
すなわち真実の自己を究明する禅の修行によって高まりゆく心境を十段階
で示したもの。
もとより漢文の素養もないため、その解釈文に頼るのであるが、わずかながら、
その意味が身にしみてくる。悟りを得ようなどと言う大袈裟なことではなく、
自身の行き方の指針として、読み解けば少しは人生変化に役立つとは思う。
十牛図は、中国・宋時代の廓庵禅師の創案と言われ、日本においては、
古くから現代に至るまで、禅を学ぶ絶好の入門図として重要視されてきた。
しかしこの図は禅宗だけが専有すべきものではない。
人生のさまざまな重要な問題を提起し、それに答えてくれる人生の指南図
でもあるからである。尋牛から入廛垂手までの十の図を前にして、
「いったいなにか」「いかに生きるか」という二大問題の解決を目指して
静かに観想して行くことが大切となる。
中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名。
■各図の説明
1)第一図 尋牛(じんぎゅう)
ある日、牧人の飼っている一頭の牛が牛小屋から逃げ出たことに気づいた
牧人は、野を歩き川を渡り山を越えてその牛を探し求めている。
ただ一人で・・・。
彼は「自己究明」の牛探しの旅に出かけたのだ。
従来不失(従来失せず)
何用追尋(何ぞ追尋を用いん
(始めから失ってもいないのに、どうして探す必要があろう)
在向塵而遂失(向塵に在って遂に
(目を覆った塵を払おうという在り方が牛を見失うことになる)
2)第二図 見跡(けんせき)
「もう牛は見つからない」とあきらめていた牧人が、ふと前方に目を
落とすと、そこに牛の足跡らしきものを発見する。
「ああ、牛は向こうにいるぞ」と牧人は喜んでその足跡をたどって駆け
寄っていく。
足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
「経典をたよりに道理を解し、祖師方の教えを読んで足跡を知る。
色々な器も皆金である事を見て通り、万物が自分と実感する。
正か邪かを判断できないのに、何で本物と偽者との区別が出来よう。
まだそうした教えの門には、入らないけど、仮に足跡を見つけたとしておこう」
禅では、三毒五欲として、怒りや欲望、怠惰を戒めている。
3)第三図 見牛(けんぎゅう)
牧人はとうとう探し求めている牛を発見する。牛は前方の岩の向こうに
尻尾を出して隠れている。牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足を
忍ばせて牛に近づいていく。
優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
貶上眉毛(眉毛を貶上すれば)
但非他物(但し他物に非ず)
声をたよりに入り口を見つけ、眼をやればその場が根源と知る。
六根の動き一つ1つが、たがうことなく、日常の一つ1つが見事にそれを現す。
あたかも水に含まれる塩分や絵の具の膠のように。眼を見開けば、これこそ
まさにそのものだ。
4)第四図 得牛(とくぎゅう)
牛に近づいた牧人は持ってきた綱でついに牛を捕らえる。牧人は、再び
逃げ出そうとする牛と渾身の力をふり絞って格闘を始める。
何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
欲得純和(純和を欲得ほっせば)
必加鞭楚(必ず鞭楚を加えよ)
久しく野外に隠れていたその牛に、きょうやっとめぐり会う。あたりの景色
に見とれ、肝心の牛を追うのをためらう。牛も美しい草原に未練あり。
頑な心が依然として強く、まだまだ野生が抜けきらぬ。柔順さを得たいなら、
どこまでも鞭打つことだ。
5)第五図 牧牛(ぼくぎゅう)
牧人は暴れる牛を綱と鞭とで徐々に手なづけていく。牛はとうとう牧人
の根気に負けておとなしくなり、牛はもう二度と暴れることも逃げ出す
こともない。
悟りを自分のものにするための修行を表す。
在迷故而為妄(迷いに在るが故に妄となる)
忘念がすこしでも起これば、また次の妄想が付いてくる。
本心本性に目覚めることによって真実を完成するのであって、
それを見失っているから心が迷うのだ。他のせいでそうなるのではなく、
自分自身がそうしているにすぎない。だから、手綱を強くしっかりと
引け、もたついてはならぬ。
6)第六図 騎牛帰家(きぎゅうきけ)
牧人はおとなしくなった牛に乗って家路につく。牛の堂々とした暖かい
背中を感じつつ、楽しげに横笛を吹きながら・・・。
悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
身横牛上(身を牛上に横たえ)
目視雲宵(目にうんしょうを視る)
人と牛の争いはすでに止み、捕らえることも逃がすこともさらさら
なくなった。樵夫(きこり)は村の歌をうたい、牧童は笛を吹。
牛の背に身を横たえ、眼は大空の彼方を見る。その人を呼べども
返らず、引きとめようとしても無駄なこと。
通常はこの6図までが一般民衆が事項すべき基本との事。
7から10図は、禅宗の人間が更に己を高めるための教えとなる。
なお、ここに出てくる「雲宵(うんしょう)」は朝空けとなる直前の
情景を示している。
7)第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
とうとう牧人は自分の庵に帰り着き、牛を牛小屋に入れてほっとした
牧人は、庵の前でのんびりとうたた寝をしている。静寂の中、安堵の
気持ちで・・・。彼は「生死解決」をほとんど成し遂げたのです。
悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
法無二法(法に二法なし)
牛且為宗(牛をしばらく宗と為す)
、、
一道寒光(一道の寒光)
威音劫外(この世のはじめ以前から変わらない)
8)第八図 人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)
うたたねをしていた牧人が突然にいなくなる。あるのはただ空白だけ。
牧人になにが起こったのだろうか。
すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な
存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
凡情脱落
聖意皆空
迷いも抜け落ち、悟りも全てなくなる。
9)第九図 返本還源(へんぽんげんげん)
空の世界からふたたび自然が戻る。牧人の中に根本的な変革が起こった。
牧人は自然のようにすべてを平等視して生きることができるようになった。
原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中に
あることを表す。
水緑山青(水緑に山青くして)
坐観成敗(坐ながらにして成敗を観る)
居ながらにして世の移り変わりを観ているのだ。
このような境地に成れるのだろうか。まあ、無理な気がするが、人は無限の
素地を持っているとも言う。なりたいものである。
10)第十図 入廛垂手(にってんすいしゅ)
牧人は再び人間の世界に立ち帰り、人びとが行き交う町の中に入った彼は
一人の迷える童に手を差し伸べている。牧人はとうとう「他者救済」という
彼が目指す最高の境地に至った。
この「十牛図」というのは、自分のあるべき姿ないし悟りを開いた自分を
未だに見いだせず、したがって悩みをかかえている人が悩みから脱し、
心神合一の境地を求めて自分探しをするプロセスを描いているが、ここでの
牛が理想であり、牧童が現実と読み取ることができる。
現実と理想の姿をキチンと理解、把握することが自身の生き方を見直す
こととして、必要である。
しかし、言うは易し、である。その実践と想いの具体化は中々に難しい。

「自分の強みを知る?ストレングスファインダー?」

「自分の強みを知る?ストレングスファインダー?」

各企業の経営戦略策定の支援を依頼されるが、社長含め、結構自社の強み、弱みを
認識されていない企業が多い様である。その時の状況と合わせ、基本的なアプローチ
手法をベースに、精度の高い企業のSWOTを導くのも、中々、骨のおれる仕事でもあ
る。
それと同様に、自分の強み、弱みをあらためて問い直す時、結構、曖昧であることがあ
る。
インキュベーションや個人起業のためのセミナーを開催した時に、まず、書き出しても
らうのが、自分の思い、そして、強み、弱み、人脈についての洗い出しがある。
中々、皆さん、書き出せないのが一般的?
ストレングスファインダーと言う自分の強みを特定してくれるサポートがある。
180項目の質問に答えると「自分だけの特長的な資質」のレポートがまとめてもらえ
る。
あなたのStrengthsFinderの結果に基づき、上位5つの資質を強い順に並べたもの。 
全34項目中、これらの資質があなたの強みの上位5つ(開発者は順位付けはあまり
意味無いとも言っているが)。
「自分だけの特長的な資質」は、資質を最大限に活かし、将来の成功につなぐ手がかり
となります。個々の資質に着目したり全体を概観することで、自分にどのような資質が
あるかをよく把握することができ、さらにそれらを強みとして成長させ、仕事やプライ
ベートの両面で一貫してよい結果を得ることができる。
因みに、私の5つの強みは、
■最上志向 
■収集心 
■内省 
■目標志向 
■戦略性 
との事。詳細な説明が個々の項目であり、概ね、合っている。
それでは、自分の資質が気に入らなければ、新たな資質を開発できるのか
ひとことで言えば、答えはノーとの事。
ストレングス・ファインダーは、何組もの質問に対する直感的な解答をもとに、
被験者のパターンを割り出し、被験者の最も強力な脳内回路、優位を占める
資質を測定するものだが、すでに述べたように、それらの資質は永続的なものだ。
どれほど変えようとしても、資質は絶対に変らない。 
自分の特性を理解し、それを高める方向に持っていくことが望ましいようである。
■34の資質とは、
1.達成欲 
達成欲という資質を持つ人は、並外れたスタミナがあり、旺盛に仕事に取り組みます。
 2.活発性 
活発性という資質を持つ人は、アイデアを実行に移すことにより結果をもたらします。
 3.適応性 
適応性という資質を持つ人は、「流れに沿って進む」ことを好みます。 
4.分析思考  
状況に影響を与える可能性のあるすべての要素を考慮に入れる能力を
備えています。 
5.アレンジ 
たくさんの要素を構成し管理することができると同時に、作り変えることを
いとわない。
6.信念思考 
その人の中核となる強い価値観があり、しかもその価値観は変わらないものです。 
7.指令性 
資質を持つ人には、強い存在感があります。状況の主導権を握り、決断を下します。 
8.コミュニケーション 
一般的に自分の考えを言葉に表すのが得意です。話術に優れ、物事を印象的
に説明します。 
9.競争性 
競争性という資質を持つ人は、自分の進歩を他人と比較します。 
10.運命思考 
あらゆる人や物事は互いに結びついていると考えています。ほぼあらゆる出来事
には何らかの理由が存在すると確信しています。
11.原点思考 
過去や原型について考えるのが好きです。過去を調べることにより、
現在を理解します。 
12.慎重さ 
慎重さという資質を持つ人は、決定や選択を行う時に細心の注意を払います。 
13.成長促進 
他人の持つ可能性を認識し、それを伸ばし、目覚めさせます。他人の小さな進歩の兆候
を見逃さず、このような進歩を実現することから充足感を得ます。 
14.規律性 
日課や秩序正しい計画に従うことを好みます。世界は自分が作った秩序の中に存在しま
す。 
15.共感性 
自分を他人の状況に置き換えて考えることにより、他人の感情を察することが
できます。 
16.公平性 
あらゆる人を平等に扱う必要性を確信しています。明確なルールを定め、
それに従うことで、世界のすべての人を公平に扱おうとします。 
17.目標志向 
目標を定め、その目標に向かってまい進し、目標達成に必要な修正を行うこと
ができます。 
18.未来志向 
未来がどのようなものかについて考え、そこからアイデアを得ます。ビジョン
を語ることで、人々を高揚させます。 
19.調和性 
意見の一致を求めます。意見の衝突を嫌い、異なる意見でも一致する点を探ります。
20.着想 
着想という資質を持つ人は、新しいアイデアを考えるのが大好きです。 
21.包含 
他人を受け入れることができます。人の輪から外れている人に注意を払い、
そのような人を輪に入れようと努力します。 
22.個別化 
個別化という資質を持つ人は、一人一人が持つユニークな個性に興味をひかれます。 
23.収集心 
収集心という資質を持つ人は、より多くの知識を求める知りたがり屋です。 
24.内省 
頭脳活動に多くの時間を費やします。内省的で、自分の頭の中で考えるのが好きで、
知的な討論が好きです。 
25.学習欲 
学習欲という資質を持つ人は、学習意欲が旺盛で、常に向上を望んでいます。 
26.最上志向 
強みを利用して、平均的ではなく最高の水準を、個人ないしは集団において
追求します。 
27.ポジティブ 
情熱的であり、しかも自然にその熱意を人に分け与えることができます。
生き生きとしており、他人に活気を吹き込み、やる気を起こさせることができます。 
28.親密性 
他人との緊密な関係を楽しみます。目標達成のために友人と努力することから、
大きな満足感を得ます。  
29.責任感 
一度やると言ったことは必ず実行する精神の持ち主です。正直さや忠実さなどの普遍的
価値観を達成することに、意義を感じています。 
30.回復志向 
問題を解決するのが大好きです。どこに問題があるのかを探りあて、それを
解決することに長けています。 
31.自己確信 
自分の能力と判断力に自信を持っています。まるで、自分が正しい方向へ
進んでいることを教えてくれる羅針盤が体内に備わっているかのようです。 
32.自我 
自我という資質を持つ人は、他人の目から見て非常に重要な人間になることを
望んでいます。
独立心に富み、人から認められたいと思っています。 
33.戦略性 
戦略性という資質を持つ人は、目的に向かうための選択肢を想定することができます。
いかなる想定に直面しようとも、適切なパターンと問題点を直ちに予測することができ
ます。 
34.社交性 
知らない人と出会い、自分を好きになってもらうのが、大好きです。見知らぬ人と
打ち解けて親しくなることから満足感を得ます。
自分を本当に捉えているか?は個人の判断に任せるが、34の項目から5項目を選別
するのだから、約28万通りあり、また、多くの被験者のデータをベースとしている
点も考えると、結構的を得ているかも。
自分を理解することも大事な時代です。